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北京五輪に挑んだ HEAD JAPAN REBELS
夢に見た舞台でつかんだもの

北京オリンピックのアルペン競技に出場した日本選手は3人。そのうちふたりは、ヘッドのスキーをはくHEADJAPAN REBELSだった。小山陽平と向川桜子。ともにこれが初めてのオリンピックである。

結果は、スラロームに出場した小山が1本目途中棄権、向川はGSとスラローム2レースを完走し、それぞれ31位と35位だった。冬季五輪としては史上最多の18個のメダルを獲得した日本選手団にあって、アルペン陣の成績は注目を浴びるには至らなかった。

だが、結果はどうあれ、彼らの戦いは記憶にとどめておく必要があるはずだ。北京の氷結斜面に挑んだふたりのオリンピックを振り返ろう。

京五輪の開幕を約2週間後に控えたオンライン記者会見で、小山陽平は初めてのオリンピックに臨む心境について次のように語っていた。

「オリンピックもシーズンの中のひとつのレースと考え、しっかりと準備をしてスタートに立ちたい」

4年に1度の大舞台。しかも彼にとっては初めてのオリンピックだ。気持ちが高ぶらないはずはないが、だからこそ、それを過剰には意識せず平常心で臨みたいという意味だったのだろう。数字的な目標にはあえて言及せず、湧き上がる闘志を心のうちに秘めたいかにも小山らしいコメントだった。

そしてその夢舞台が終わった今、

「ふつうのレースと違う感覚はあったけれど、でもスタート前はしっかり集中できて、自分のペースで挑めたと思う。オリンピックの特別感が、マイナスの面に働くことはなかった」と振り返る。

 

しかし、結果はスラロームの1本目でポールをまたぎ途中棄権。残念ながら順位を残すこともなく、彼の北京五輪は25秒足らずで終わった。

延慶ナショナルアルペンスキーセンターと呼ばれるアルペン会場は、このオリンピックのために新しく造成されたコースだ。気温は極端に低い地域だが、地形的に雪はほとんど降らない。したがって、コースはほぼ100㌫人工雪。連日の厳しい冷え込みとインジェクションによる大量の水の注入によって、コースは硬く凍結していた。

「ほぼ氷のような状態だったので、その点には注意が必要だが、コースや雪質に難しさは感じなかった。ワールドカップに比べれば単調なコースだという印象だった」と小山はいう。急斜面からスタートし、長い緩斜面をはさんで斜度を増しつつ右に急カーブ、その後ゴールまで急斜面が続くという構成は、アデルボーデン(スイス)に似ているが、そこにアイロンを掛けて、複雑なうねりやねじれを平らにならしたようなイメージだった。

「最後の急斜面は、僕にとってはタイムの稼ぎどころ。それに対して、中間の緩斜面はほぼ真っ平らだから、思い切り攻めて行かなければ絶対にタイムが出ない。そこでどれだけ離されずにトップとの差を詰めていくかが勝負だった」と振り返る。そして小山がポールをまたいでしまったのは、まさに勝負をかけた緩斜面だった。

周到な準備を積み北京へ

小山が北京五輪の出場権を獲得したのは、12月22日にマドンナ・ディ・カンピリオで行なわれたワールドカップのスラローム第2戦で8位に入賞したからだ。日本人選手がワールドカップで一桁台に入賞したのは、2017年の湯浅直樹以来5シーズンぶりのこと。小山自身はその快挙について

「運にも恵まれて、すべてがうまくいったレース。自分が理想とする滑りを頭の中に鮮明にイメージすることができて、それを実際に体現するのも簡単にできていた時期だった」と振り返る。だが、残念なことにその好調は長くは続かなかった。1月に入った頃からくるぶしが炎症を起こし、痛みが出始めたのだ。しばらくは我慢していたものの、次第に水がたまるようになったので、医者にかかった。手術する選択肢もあったが、本格的な治療はシーズン終了後に受けるとして、当面は注射針で水を抜きつつレースを続けるという結論に落ち着いた。ヘッドからは、彼のために新しいスキーが用意されていた。アレクシー・パントュローら、ヘッドのトップレーサーたちが使うのと同じタイプのモデルだった。練習で使ってみるとその戦闘力の高さが、すぐに実感できた。ただ、これまで使ってきたスキーにも大きな信頼感をおいている。どちらのスキーで本番に臨むか迷ったが、最終的にはワールドカップ8位になったときのはき慣れたスキーを使うことにした。そのままワールドカップ4レースを戦い、五輪前にいったん帰国。約1週間スキーをはかずにいたことで痛みは癒え、不安はほとんど解消された。その後、菅平で2日間の雪上トレーニングを行ない、最終調整を済ませてから北京に向かった。

調子はふたたび上がってきた。痛みが消えるとともに滑りに本来の鋭さが戻り、自信も湧いてきた。強豪国との合同タイムレースでは、クレモン・ノエル(フランス)やダニエル・ユール(スイス)に毎回ほぼコンマ差。自分の滑りが確実に上り調子にあることを確認して、スラローム当日を迎えた。

1本目、小山のスタート順は28番だった。勢いよくコースに飛び出すと、最初の中間計時を1本目ベストタイムのヨハネス・シュトロールツ(オーストリア)から0秒19差で通過した。スタートダッシュが課題の小山としては上々の滑り出しだ。しっかりとリズムをつかみ、小気味良いターンを連続させながら緩斜面に入っていった。緩斜面は彼の苦手な部分だったが、絶対に遅れてなるものか、という気持ちが伝わる気迫の滑りだった。やがて少しずつ斜度が増し始め、第2中間計時にさしかかる。フォールラインに平行なバーチカルゲートが縦にふたつ続くヘアピンだ。それまで何の不安もなく滑走していた小山が、突然つんのめるようにして雪煙をあげた。ヘアピンゲートの最初の右ターンで、右スキーがポールの内側に入りまたいでしまったのだ。この日の気温はマイナス20度という極寒でコースは硬く氷結していた。しかし、3日前に大雪が降ったことで、その氷の質が若干変化していたことは見逃せない事実だろう。それまでと比べると、表面が削れるのが早く、小山が滑る頃には、すでにコースのところどころが割れていた。

「掘れているというほどではないが、雪面が波打つ感じで、しっかりととらえていないと簡単に弾かれてしまうような状況だった。ヘアピンでリズムが変わるので、ここからラインを少し上げようとしたら内スキーが食い込みすぎてポールの内側に入ってしまった」内スキーでポールをまたぐ、いわゆる〝片反〟は、技術的なミスで起こる場合がほとんだが、高いレベルのレースでは〝事故〟としかいいようのない偶発的なアクシデントであるケースも少なくない。100分の1秒を削るために、センチ、ときにはミリ単位でインを狙う最高レベルのスラローム。そのなかで、果敢に勝負を挑んだが故の失敗と考えれば、これも彼が1度は通るべき厳しい試練だったということだろう。レース後、テレビのインタビューに答えて小山はこう語った。

「残念だ。でも全員がメダルを狙って勝負をかけるオリンピック特有の雰囲気のなかで戦うことができたのは、貴重な経験だった」

初めてのオリンピックはほろ苦い思いを残して終わった。だが23歳の挑戦はまだまだ続く。この敗戦は、彼をさらに高いレベルに押し上げる大きな力となるだろう。ワールドカップのスラロームは残り3戦。結果次第では、最終戦出場への可能性も残されている。日本のエースに成長した小山陽平の戦いに、引き続き注目していきたい。

厳しいトレーニングで体重を増やし、パワーアップしたことで、滑りのレベルも大きく上がった

8位となったマドンナ・ディ・カンピリオのワールドカップ・スラローム。
左は加藤聖五

夢をかなえた30歳の冬

小山と同様、向川桜子にとってもこれが初めてのオリンピックだった。だが、シーズンが始まる時点では、北京五輪は文字通りの夢。目標として追いかけはするが、どこか遠い存在で、自分がそこに届くとは思ってはいなかった、と向川は正直に告白する。そもそも彼女は2年連続でナショナルチームから外れ、国内強化指定選手という扱い。海外での練習環境は自分で確保しなければならないし、ワールドカップやヨーロッパカップへの出場も、枠が空いていれば、という条件付きだった。そんな厳しい状況のなかで、彼女が北京行きのチケットを手に入れることができたのは、ヘッドの強力なサポートがあったからに他ならない。ヘッドジャパンは、向川と彼女と同じく国内強化指定選手の大越龍之介をサポートするサービスマンとして藤本を派遣。藤本がふたりのレース活動を支えたのだ。藤本の存在は、とりわけ向川にとって大きな力となった。ナショナルチーム外の彼女にはコーチがいないので、サービスマンとしてだけではなく、ときには藤本から技術的なアドバイスを受けることもあった。

「食事をしているときやリフトで一緒に上るときなどに、かんさんは、ちょっとしたことをボソっとつぶやいてくれる。ああ、そうかって、とても貴重なヒントになることがたくさんあった」と向川はいう。いっぽう藤本は

「僕は技術的なアドバイスをできるような立場じゃないけど、そのときどきで感じたことを伝えたり、ビデオを撮って一緒に見て話し合ったりした。それが彼女の役に立ったのならうれしく思う」と語る。向川はセンメリング(オーストリア)で行なわれたスラローム第3戦で27位となり、ワールドカップ9年目、通算27レース目にして初のカップポイント獲得。これが決め手となって五輪出場が決まった。

北京五輪で、彼女はGSとスラロームの2種目に出場した。ここ2シーズンはほぼスラロームに専念していたが、先に行なわれるGSにも出場することで、スラロームに余裕をもってスタートできるだろうという狙いだった。

北京に入って苦労したのは、練習コースと本番コースの雪質がまったく違ったことだ。練習コースでの雪は妙にエッジが引っかかるので、それに合わせてエッジを落とすと、レースコースではまったくスキーにならない。いったいどのように仕上げればいいのか迷うのだが、今回の五輪ではサービスマンは当日のインスペクションまでレースコースへの立ち入りが禁止されていたため、セッティングを煮詰めるための微妙な感覚がわからず苦労したという。結局異なるチューンをしたレース用のスキーを2セット用意し、当日のインスペクション後に選択することにした。最終的にはヨーロッパでのレースと同じセッティングとなったのだが、その結論に至るまでふたりで徹底的に話し合ったことが、スタートするときの自信につながったと向川は藤本に感謝する。

結果はGSが31位でスラロームは35位。その数字には満足していないが、あの時点での自分の力は出し切れたという。実は彼女は、北京入りして初日の練習で転倒し、両膝を痛めていたのだ。

「これまで何度も前十字靭帯を切っているので、今回もやってしまったかなと思った。たとえ切れていてもレースには出るつもりだったけれど、実際には骨挫傷という診断。膝にたまった水をドクターに抜いてもらったので、それほど痛みを感じることなく無事スタートすることができた」と向川。ゴールしたときの笑顔は、日本のテレビでも話題になったが、不本意な順位ながら彼女が心からの笑顔を見せたのには、そういう理由があったのだ。

向川は30歳。少なくともオリンピックはこれが最後になるだろう。来シーズンもレースを続けるのか、それとも別の道に進むのか、今後のことはまだ白紙だという。しかしどちらを選ぶにしても、夢を現実にした彼女の努力が、後に続く若者たちに力を与えたことは間違いない。いくつもの困難を乗り越え、30歳の冬にワールドカップと五輪に確かな足跡を残した向川桜子に大きな拍手を送りたい。

藤本寛と向川桜子。彼の存在なくしてワールドカップ27位の成績はあり得なかったと向川は感謝する

北京五輪スラロームのスタートに立つ向川。痛みをおしてのレースだったが
自分の力を出し切ることはできたという

文:田草川嘉雄 (Yoshio Takusagawa)